四半世紀前の旅立ち、パリへ ― 2012年06月10日
朝、目を覚ますと、ひんやりとした空気が窓から入り込んでくる。それが顔に当たると、遠い思い出がよみがえる。あれから25年経った。スペインでの生活を綴りますと言ってからも6年経ってる(笑)向こうでは、一通りの季節を過ごしたが、やはり思い出深いのは初めてその地を踏んだこの季節だ。6年前に機会があればと記した、スペインまでの道中を書いてみよう。ただ、長いのでたどり着けるかどうかは不明(笑)
1987年5月29日(以前は28日と書いたが、間違い)夕方、伊丹空港を出た。大学を一年休学し、専攻のスペイン語習得、そしてその文化を知るために、単身ヨーロッパの最果てスペインへ旅立つのであった。当時からスペインへの直行便は無く、ソウル〜アンカレッジ経由の大韓航空で実に20時間ほどかけてパリへ向かった。あまり汚い格好では、過激派と間違われるからと、濃いグレーのシャツに少し濃いめの橙色のネクタイ、アイボリーの麻混のスーツに白い靴と言う出で立ちにしたが、かたぎとは少し離れている気もした(笑)
当時の日記の離陸時の感想は「飛行機は窓際の席だった。離陸の時の加速がすごい。F1はこんな感じだろうか、などと考えていると車輪が陸を離れた。気持ち悪い。足の下には何もない」確かに最初は、滑走路のゴツゴツした感触が、ダイレクトにおしりに伝わってくるが、機首が上がったかと思うと、いきなり振動が無くなり宙に浮いた感覚になる。地に足が着かないとはまさにこのことか、一気に不安になったのを憶えている。ただ、それは一瞬で「ゾッとしたが、すぐ慣れた。雲の上に出た。空を見る。青い!いや青いというより黒っぽかった。そう、青い空に宇宙の黒が混ざっている。それほど上空にいるんだ。」と、既に外の景色に興奮気味のようだった。
乗り換えのソウルで、銃を持った兵隊が滑走路をうろうろしているのに驚き、アンカレッジでは、宮本さんおすすめのアラスカうどんを発見して喜ぶ。施設に表示される言葉も、日本語など無くなり、海外にいるんだと実感し始める。ソウルで乗り換えた飛行機の座席は真ん中の一番後ろ。右隣は、伊丹〜ソウルも同じだった、パリへ出張の同年代のデザイン会社勤務の女性。左隣は、パリの学会に出席する、大阪市大の哲学の先生。パリに5年間住んでいたというこの先生の案内で、まさに関門だった税関通過から、リムジンバスで市内へ行くことができた。パリ市内へ着き、そこで二人とは別れ、タクシーでオーステルリッツ駅へ向かった。レイモン・ロッシュ似の運ちゃんは、石畳のセーヌ川沿いを飛ばす飛ばす。橋はアンダーパスで次々通り過ぎ、ゴツゴツとゆられながら外を見ると、明らかに日本とは違った風景。ああ、外国に来たんだと少し実感がわいてくる。走っている車は、結構ボロく、日本のようにピカピカに磨いている車はほとんど無かったのが印象的だった。朝の8時過ぎと、通勤ラッシュだろうか、結構車が走っていた。
鉄道はパリ市内まで入ってこず、それぞれの方向にいくつかターミナル駅がある。スペインへ行くには、南西にあるオーステルリッツ駅から列車に乗らなければいけない。まずはコインロッカーに荷物を入れて、切符を買いに行く。切符売り場は、2〜30はあっただろうか、かなりの数の窓口がある。しかし、開いているのは2つほどで、20人ほどの列があった。順番が来た。六カ国語会話の本であらかじめ調べておいた、切符を買うページ。カタカナ・フランス語で「サラマンカ行きの切符を一枚ください。」と言うが、発音が悪く通じないのか、ダメだと手を振るだけ。「ええ??」繰り返すが通じない。ページを見せてもダメだ!これがフランス人の意地悪なのか???切符すら売ってくれないのか・・・。そう思ったら「インターナショナル」と言ってる。何のことか、最初わからなかったが、そうか!列車にも国内線と国際線があって、スペイン行くには国際線の切符売り場へ行けと言うことなのかとわかった。場所を説明している様だが、わからないから絵に書いてもらった。すぐ隣だった(爆)
国際線の切符売り場へ行き、サラマンカ行きの切符をくれと言うと、夜の10時22分発になると言われた。今朝の9時くらいだから、これから12時間以上もパリにいるのか・・・言葉できひんし無理!貰い物のトーマス・クック時刻表では、昼の2時18分にスペイン行きの列車があるはず。それに乗りたいと言うと、おじさん困った顔になった。色々説明してくれるが、わからん・・・。何で売ってくれない!六カ国語会話(の本)を駆使していると、ある言葉におじさん反応。「シャンジュ・ドゥ・トラン(乗り換え)?」「シャンジュ・ドゥ・トラン!!」なるほど〜、2時18分の列車でサラマンカに行くには、乗り換えが必要だが、10時22分はサラマンカ直通だ。たぶん、ろくに会話もできない東洋人をみたおじさんは、乗り換えの必要な列車に乗って、目的地とは違う場所へ行ってしまったら大変だと思い、直通の列車を進めてくれたようだった。意地悪ちゃうやん、フランス人。執拗に勧めてくれたが、一刻も早くこの花の都を出たかったので、乗り換えが必要な2時18分の切符を買った。
やっとのことで切符を手に入れるまで、駅に着いてから既に2時間が経っていた。
四半世紀前の旅立ち、フランス ― 2012年06月12日
スペイン行き列車の切符をやっとのことで買えた時は、既に10時40分を回っていた。列車の時間まで3時間半ほど。せっかくのパリだ。市内観光でもしたい所だったが、あいにくガイド本はスペインのものしか持ってない。他はヨーロッパを紹介した、小さな冊子があるくらいだ。エッフェル塔や凱旋門なんかを観たかったが、列車に乗り遅れては大変だから、移動は徒歩圏内にとどめた(笑)
近くに大きな公園があった。木々が生い茂った立派な公園の向こうに建物が見えた。ベンチに座って少し休憩。ホッとするとお腹が空いて来た。切符買うだけでもあれだけ苦労したのに、食事なんかできない!無理だ!と思ったが、空腹には勝てず、公園を出てうろうろしてみた。レストラン風の店が何件か並んでいて、それぞれランチメニューを書いたと思われる黒板が歩道に出してあったが・・・クチャクチャと殴り書きしてあり読めない。しかし、テラス席の店がほとんどで、敷居は高くなさそうだ。その中の一軒に、意を決して入る。
12時ちょっと前なので、まだ客は少ない。ウェイターの兄ちゃんに英語で話しかけると、フランス語で返って来た・・・。しかし「to eat?」と聞いてくれた。ああ、なんとか通じるかなと少し嬉しくなり、席に案内してもらう。通りと店の間のテラス席だ。別の兄ちゃんが注文を取りに来たが、メニューがフランス語なので、チンプンカンプン。なんなのか訊こうと「What...」と言うや否や「Oh-!」と叫んで英語のメニューを持って来てくれた(笑)やっぱりチンプンカンプンだった(爆)ウェイターの兄ちゃんが「チキン」と羽ばたいたり「ビーフ」と指で角を作ったりのジェスチャー大会で、ステーキを注文。なんとかお腹も満たせた。タクシーの時もそうだったが、こんなとき一番わからないのがチップ。支払いの一割くらい置いたらいいんじゃないと言うことはわかっていたが、いつ、どうやって渡す?その時は、精算をテーブルで済ませると言うことを知らなかったので、バー・カウンターにいるウェイターの兄ちゃんの所まで行き、支払った。よくわからないので、その場でチップを手渡した。色々努力してくれたからね(笑)
オーステルリッツ駅は、ターミナル駅だけあって巨大だ。何本ものホームが大きなドーム屋根の下に並んでいる。改札も無く、そのまま目的のホームへ。列車は既に停まっていた。列車の中は、日本のものとは違い、片側に廊下があり、それぞれ8人掛けのドアの付いた小部屋になっている。ドアの窓から中をのぞくと、人が座ってたり座ってなかったり。ドアの横に小さな名札入れがある。席が決まっているんだろうか?切符を見ても、さっぱりわからない。その辺のおばちゃんに切符を見せて、この席はどこだと訊いても、ただ笑うだけだ・・・。列車は、発車ベルも無く静かに動き出した。しかし、座る所が無いとなると・・・18時間立ちっぱなしか??すると、かごにパンや飲み物を入れた兄ちゃんが歩いて来た。車内販売の売り子なら切符の見方もわかるだろうと、その兄ちゃんに席を訊くと、一言「No!」席は無いと言う・・・。おいおい・・・と思っていると、もう一人の男がこっちに来いと手招きをしてくれた。そして、ここが空いているから座れと、空席に案内してくれた。後で考えてみると、自由席だから、どこに座ってもよかった様だ(笑)
列車の小部屋(コンパートメント)は、4人がけの椅子が向かい合わせになっている。その部屋には、4人のおばさんがいた。扉側で進行方向を向いて座っていたのは、60歳くらいのおばあさん。その向かいに、首にむち打ちのギプスをはめた、やっぱり60くらいのおばあさん。ひとつ空けてアガサ・クリスティを読んでいる、少し上品な、それでもって田舎っぽい、いやちょっとイテリっぽい?おばさん。その向かいには、化粧の濃い50歳くらいのおばさんが座っていた。私はむち打ちとアガサ・クリスティのおばさんの間に座った。むち打ちのおばあさんと向かいのおばあさんは、どうやら連れの様だ。しばらくみんな、黙って乗っていたが、そのうち扉側のおばあさんが、化粧のおばさんに話かけ、そして4人で世間話を始めた。私は、会話を聞いてもさっぱりだし、かといって窓から遠いので、車窓をずっと眺めているわけにもいかない。座らされた席が、おしゃべりの真ん中に陣取った形になっているが、会話に参加できるわけも無い。時々目が合うおばさんたちに愛想笑いを返すくらいだ。すると、化粧のおばさんが片言の英語で「日本人か?」と訊いて来た。「そうだ」と言うと「ボルドーへ行くのか?」「サラマンカ」「大学?」「そう」など、ほとんど単語での会話だった。他のおばさんたちも、いろいろ訊いてくるが、フランス語だからわからない。それでも、いろいろと話しかけてくれる。「ほら、あれを見て」と窓の外を指差して、両手で三角のとんがった形を作って、「あれは教会よ」とか、いろいろな建物の説明もしてくれた。みんな降りる駅は別々だったけど、別れ際にこう言ってくれた「Bon Voyage!(良い旅を)」。でも、7時間にも及ぶ列車の旅を「Bon Voyage」にしてくれたのは、他ならぬおばさんたちのおかげだった。
みんな降りて部屋には一人になり、フランス最後の駅で、売り子たちも降りて行った。フランスとスペインでは、線路の幅が違う。ヨーロッパで、スペインだけが幅の広い線路を使っているので、国境では乗り換える必要があったのだ。これが夜10時22分発の列車だと、たぶん寝台車になるので、乗ったまま台車を付け替えてくれるらしいのだ。そう言う意味でも、切符売り場のおっちゃんの心配がわかった気もした(笑)みんな降りて行くが、ここはまだフランス?それともスペイン??出入り口にいるおっちゃんに聞いてみることにした。
四半世紀前の旅立ち、スペイン入り ― 2012年06月14日
ここはもうスペインなのか、それともまだフランスなのか。国境駅と言っても、国境線の真ん中に駅があるわけではない。フランス側の国境駅とスペイン側の国境駅があり、それぞれに入出国管理や税関があり、旅行者は行き先の国の国境駅まで行き、そこで入国審査を行うのだ。だから、同じ国境駅でも、フランス側で降りたら大変だ。しかし、ほとんどの人が降りてしまい、不安になったので、扉付近にいたスペイン人らしきおじさんに、訊くことにした。「ここはIrun(スペイン側の国境駅)か?」「違う!スペインは、反対側から降りるんだ!」やたら元気がいい(笑)「どこまで行くんだ?」「サラマンカ」「オー!マドリッドからいくのか?」「いや、メディナ・デル・カンポで乗り換える。」「メディナ・デル・カンポ??やめとけ、やめとけ!!何にも無い所だぜ。小さい、小さい。マドリッドにしときな!マドリッドには何でもあるぞ!カフェ、バル、レストラン、コーラにペプシもあるで!!!」ガンガン、まくしたてるように喋る。明るい!これがスペイン人か??
イルン駅に到着し、税関を通る。陸の国境越えだ。でも、荷物検査など無し、パスポートを見るだけ。空港のように仰々しい設備など無く、普通の田舎の駅って言う感じだった。後で気づいたが、入国のスタンプすら押してくれない簡単さだった(笑)両替をして一息つく。時計を見ると午後9時半。だが、まだ夕方のように明るい。列車の出発は10時半。席はガラガラで、誰もいないコンパートメントを独り占めした。他の部屋を見て回ると、アメリカ人の団体と若者が2、3人くらいだ。10時頃にやっと日が暮れ、辺りが暗くなり始めた。えっ、10時?どうやらスペインはこの季節、日暮れが10時頃の様だ。部屋には蛍光灯がついているが、暗い!ちょっと落ち着いたので、日記を書こうと思ったが、字が読めないほど暗かった。ほっこりと、日本を出てから今までのことを思い出す。まだ一日ちょっとしか経ってないが、色々あった気がする。そんなことを思っていると、警笛が鳴って列車がゆっくりと動き出した。
乗換駅のメディナ・デル・カンポ到着は朝になる。一人だから、横になって寝られるかなと思ったら、30歳くらいの若い男が「空いてるか?」と扉を開けた。アラブ系の顔立ちで頭はパンチパーマ風。黒いシャツに黒いズボン、白いジャケットを着て黒いカバンを持っている。薄暗いので、そのくらいしかわからない。何か話しかけてくるが、全くわからない。「フランス語?僕はフランス語はわからないよ。」と答えると、英語で話して来た「いや、私はモロッコのカサブランカに住んでいる。私はモロッコの言葉とフランス語はできる。英語も少しわかるが、大変貧弱だ。」さっきのは、モロッコの言葉だったのか?「僕も少しなら英語はできるよ。」そう聞くと、男はうす笑みを浮かべ「悪いが閉めさせてもらうよ。」と戸を閉めた。と、その時、二人のスペイン人が、席が空いてるかと戸を開けた。すると男が強い口調で「No!空いてない。あっちへ行ってくれ!」と言って、ピシャリととを閉めた。二人を追い払って、男が言った「実は、私はお金を持っていない。ゼロだ。だから他の人が来ると困る。」。えっ、どう言うことだ?
薄暗い部屋だったが、列車が走るにつれ、だんだん明るくなって来た。見知らぬ土地の列車のコンパートメントに、一文無しのモロッコ人と二人きり。やばいな〜、金貸してくれって言うんじゃないかと、緊張でドキドキしていた。男はタバコを出して「吸うか?」と訊いて来た。「いや、僕は煙草は吸わない。」「そうか・・・吸ってもかまわないか?・・・ありがとう。」結構礼儀正しい。「どこまで行くんだ?」「サラマンカへスペイン語を勉強しに行くんだ。」「学生か?」「夜学校へ行って、昼は事務所で働いている。」「大変だな・・・」片言の英語で会話しながらも、いつ金の話を切り出されるんだろうと、そればかり考えていた。もしナイフなんか持ってたらヤバいな・・・。男は煙草を吸いながら廊下へ出た。どうやら、他の部屋の様子を見に行ったらしい。大きな荷物もあるし、列車だから逃げられないな。ああ、今までは結構いい感じだったのに。そう思っていると、男が慌てた感じで戻って来た。そして、部屋に入ると自分のカバンをつかんで言った。「あっちに友だちがいる。あっちへ行くよ!」「友だち?」「ああそうだ。それじゃ、ありがとう。がんばって、Bon Voyage!」そう言って男は出て行った。一気に緊張が解け、力が抜けた。
後で考えると、走る列車の中で強盗はたらいても、他に乗客もいるし車掌も回ってくる。それほど無茶はしないかな。ただ、夜行列車は、寝込みを襲う泥棒がいるので、それには注意が必要だから気が抜けない。数年後、それでビデオやカメラ一式を盗まれることになるが、それはまた別の機会に。
検札に来た車掌が、メディナ・デル・カンポは6時着だと教えてくれた。少し眠ることにする。
【写真は本文には直接関係ありませんが、サラマンカの鉄橋。パリ編にも、翌年撮ったものですが写真追加しました。映っている車は、たまたま停まっていたもので、年代的にもこれらが走り回っていたわけではありません(笑)】
四半世紀前の旅立ち、サラマンカに ― 2012年06月16日
目覚めたのは5時半頃だった。車内アナウンスなど無く、停車駅には静かに停まって、そして動き出すので、停車する度に駅名を確認しなければならない。教わったわけでもないのに、すぐに降りられるように、荷物を廊下へ出して外を眺めていた。一応経験から学習している様だ(笑)廊下には、同じように待っている若者が数人いる。一人の青年が話しかけて来た。金髪で、長身のジョン・デンバーって感じ(ジョン・デンバーの身長知らないけど)。英語もスペイン語もペラペラだ。名前はシェル。スエーデン人で、ストックホルムから47時間、列車にゆられてきたそうだ。彼もサラマンカで勉強するらしい。とてもさわやかな青年だ。こちらも聡明さを出そうと「スェーデンのことなら知ってるよ!スカンジナビア半島にあって、海岸がクネクネで、ボルボにABBAにA〜haだろ。」と得意げに話すと「A〜haはノルウエーなんだけど・・・」とつっこまれてしまった(笑)ちなみに、海岸クネクネのフィヨルドもノルウエーだ。クネクネ海岸のリアス式海岸のリアスは、スペイン語由来である。
メディナ・デル・カンポに着いたのは6時半だった。普通に走って30分も遅れるか?しかし、これが普通なのだ。シェルくんが乗り換えの列車を訊いてくれ、無事乗り換え完了。夜は明け、窓の外に広大な平野が広がる。見渡す限り畑と荒れ地だ。生まれて初めて地平線を見た。線路沿いには、赤い花が一面に咲いている。何の花だろう?とシェルくんに訊くと「花はあんまり詳しくないんだ」と苦笑いしていた。しかし、何となくケシの花に似ている。一面に咲くケシ。もしこれがケシなら、スペイン人の陽気さの原因はここにあるのでは!(爆)と、一大発見をしたような気になった(笑)
8時半、サラマンカ駅に着く。小さな田舎駅。改札が無いので、そのまま駅舎を出ると、ロータリーになっている。駅にも駅前にも、歩いてる人もいない。シェルくんと別れて、ホーム・ステイ先へ向かう。しかし、事前に学校から送ってもらった地図では、よく場所がわからない。客待ちのタクシーが2、3台いた。ここは無理せず、タクシーを使おう。学校から送られて来たホーム・ステイ先の住所を見せる。がんばって会話してみようと「長いか?(遠いかと訊きたかった)」と訊くと、おじいさんの運ちゃんわかってくれたようで。「そんな事無い」と答えてくれた。街並は、一戸建ては無く、全て10階建てくらいのマンション。高さも結構揃っていて、オフィス街を連想させる。
5分もかからずに到着。トランクから荷物を降ろし、5ペセタ(当時約6円)のチップを渡すと、おじいさんの顔がみるみるほころび、インターホンで取り次いでくれた。そうなのか、スペインでは、建物の入り口は全てオートロックで、玄関のインターホンで開けてもらう仕組みだと、そのとき知った(笑)しかし、おじいさん、なんだかゴチャゴチャ話してる。荷物持った東洋人が来てるぞとでも言ってるのか、ちらちらこちらを見ながら、何やら私の説明をしている様だ。話がついたのか、ドアが開き中へ入る。薄暗く、ひんやりとした廊下の突き当たりにエレベータの窓から漏れる明かりが見える。4人も乗ればいっぱいになりそうな小さなエレベータ。扉はクローゼットみたいな折りたたみ式で、手動だ。内側の扉は無く、大きく空いた出入り口を壁と扉が上から下へと流れる。ホーム・ステイ先は4階。スペインでは、1階がBで、日本での2階から1階と数え始める。だから、4階は日本式では5階。4階と言えば、4のボタンを押すだけだから間違わないが、下りる時は注意が必要だ。
目的の家は、エレベータを降りてすぐ右にあった。呼び鈴を鳴らし、ドアが開くと、おばさんが一人立っていて、中へ入れと言う。日本を出てから、飛行機、列車を乗り継ぎ40時間以上掛けて、やっとたどり着いたスペインでの滞在先。ホッとしたのもつかの間、何となく様子が変だ。ウェルカムな雰囲気じゃない(笑)おばさん、盛んに何か喋っているが、わからない。落ち着いて聞くと「こんな話は聞いてない!お前の部屋なんか無い!」と言ってる様だ。ええ?
四半世紀前の旅立ち、ホーム・ステイ先で ― 2012年06月18日
飛行機と列車を乗り継ぎ、二日かけてやっとたどり着いたスペインのホーム・ステイ先。「遠くからよく来たわね!さあどうぞ!」と歓迎されると思いきや、「そんな話は聞いてない、お前の部屋は無い」なんて仕打ちを受けるとは!半年ほど前から準備し、大学の外国人語学コースにも事前に予約。学校から送ってきた地図とホーム・ステイ先の住所をたよりにやって来たら、そんなの知らないと言われ、私は一体、どうしたらいいんだ!
ちょっと待ってくれと、大学から送られて来た手紙を見せると、確かに私の所だと言ってる様だ。だが、何の連絡も無かったし、部屋も無いと言う。とりあえずホーム・ステイ予定だった家のリビングのソファに座り、おばさんが喋りまくるのを聞くが、目の前真っ暗、頭は真っ白。しばらくすると、14、5歳くらいの女の子が起きて来た。続いて10歳くらいの男の子も出て来た。到着してから、ずっとまくしたててたおばさんだったが、学校からの手紙を見てちょっと納得したようで、しきりに何か聞いてくる。「完全なペンションがいいのか?」と言ってる様だ。何のことだ?辞書を引くがpension completa=完全な宿・・・だよな・・・。色々説明してくれるのを聞いて、やっとわかった。食事は三食付きがいいのかと言ってる様だ。「それがいい」と言うと、おばさん「わかった」と言って、玄関入ってすぐの6畳ほどの男の子の部屋を片付け、一言「この部屋を使いなさい」
えっ?さっきまで、連絡無かっただの部屋は無いだの言ってたから、放り出されると思っていたのに、いきなり部屋を用意してくれるとは、それも子供の部屋を。あまりの急展開に呆然としながらも、これから生活するベースが決まり、本当にホッとすることができた。
部屋にはベッドとライティング・テーブルと小さな引き出しがあった。ライティング・テーブルのテーブル部分は私が使い、上の棚部分は、子供達の人形を飾る場所。引き出し類は、半分は私、半分は男の子用と分けられた。荷物を整理したら、昼食の時間になった。ちゃんと私の分まで用意してくれている。実は、フランスでフランの両替をギリギリにしておいたので、フランスの列車の中ではコーラしか買えず、スペイン国境でTCを両替したが、今度は売店も無く売り子も来なかったので、前日の昼以来のまともな食事となった。おばさんの名前はドミ。娘はクリスティーナ、息子はオスカル。私の他に、フランス人の女の子が二人ステイしていた。
食事の後、早速外を散策してみようと、学校から送って来た地図を出して「ここの家は、この地図ではどこになる?」と訊いた。おばさんがピンク色のB4ほどの大きさの地図を見て「う〜ん、この辺」と指差したのは、地図の右上の端から更に20cmほど離れたテーブルの上だった!(爆)日本にいる時、いくら探しても見つからなかったのだが、地図に載ってない家だったとは!いい加減さに、少しめまいがした(笑)とりあえず通う予定の大学へ行ってみることにした。外にいるのはスペイン人ばかりだ(笑)サラマンカには、スペイン最古の大学があり、またスペイン語の標準語を話す地域なので、語学留学する日本人も多いと聞いてたんだけどな。
大学は中心街にある。近づくにつれ、古く、装飾も立派な建物が多くなって来た。外国人だらけの中、ああ来たんだと実感。15分ほど歩くと、プラサ・マジョールと言う建物に四角く囲まれた大きな広場に出た。一辺100mくらいあるだろうか。周りは4階建てくらいの建物で正方形に囲まれ、回廊になっている。私が入ってきた方角が正面のようで、その辺の真ん中の建物がひときわ大きい。広場の周りにはバル(居酒屋)がたくさんあり、広場には椅子とテーブルがあちこちに並んでいる。その広場に入った瞬間、わっと耳に入って来たのが、話し声、話し声、話し声が身体を包み込む。四方八方、上からも聞こえるサラウンド!まるで、プラザ・マジョールという升に、溢れんばかりの声を入れた!そんな感じだった。
サラマンカ大学は、スペイン最古の大学だが、私の行くのは、別の所でサラマンカ・ポンティフィシア大学。サラマンカ大学とも近く、プラサ・マジョールからもすぐだった。しかしでかい!昔の建物なんだろう。入り口には20mはあるだろう二本の塔がある。日曜日なので、事務所は閉まっていたが、今日は場所がわかればいい。明日は、今日のこと、絶対に文句言ってやる!
帰って夕食を食べると、すぐ寝てしまった。色々あった長旅で、やはり疲れていたんだろう。だが、スペインでの生活は、始まったばかりだった。
サラマンカでの生活、色んな手続き ― 2012年06月22日
翌日、学校へ手続きに行った。学校は、サラマンカ・カトリック大学の外国人向け短期語学コース。そうそう、ホーム・ステイ先に連絡が行ってなくて、ドキドキさせられたこと、絶対に文句言ってやらねば!エントランスの階段を上って中にはいると、左の巨大な壁に小さな扉が一枚。壁に「外国人コース事務所」と書いてある。中にはいると、3畳ほどの部屋の奥に、12畳くらいの事務室があった。おお、きれいな事務員さんだ!いや、そんなことで連絡不備の責任追及の手を緩めるわけにはいかない。一通り書類に記入した後で、前日の出来事を話す。大陸の反対側から、わざわざやって来たら、そんなこと知らないって言われた!連絡行ってなかったぞ!!と。どうだ!「それは何かの手違いでしょう。ご迷惑おかけしました」と平謝りで、色々いいわけでも並べるがいい!ところが美人事務員さん、特に驚いた様子も無く「で、うまくいったの?」「はい・・・」「そう、うまくいってるなら、それでいいじゃない」「あっ・・・はい」なんだ〜?一言の詫びも無し。そのとき痛感した。うまくいったらそれでいい。それがスペイン流(爆)
授業は明くる日からだが、銀行に口座を開いたり、ビザが下りるか警察へ聞きに行ったり、何かと忙しい。まずは銀行口座だ。銀行は、9時から2時までしか開いていない。銀行の数は、結構ある。と言うか、街を歩けば5軒に1軒がバルか銀行ってくらいたくさんある(笑)一番家に近い銀行に決めた。入り口はガラス戸で、人一人分くらいのスペースを空けて二重扉になっていて、それぞれに鍵が付いている。行員が客を見て、リモコンで鍵を開ける仕組みだ。口座を開こうとしたが、スペインへ来た目的と期間を証明する書類が必要らしい。学校で在学照明をもらい、後日無事口座開設。ATMもあちこちにあった様だが、よくわからなかったので、お金を下ろす度に銀行へ行くことになるので、行員のおじさんと結構仲良しになった。
一方ビザの方はダメだった。申し込みのとき、うっかり三ヶ月にしたので、日本でビザをもらうことができなかった。後から四ヶ月の書類を送り直してもらったが、届いたのは出発後だった。他の国なんてよくわからないから、スペインから一歩も出たくなかったのだが、これで三ヶ月毎に国外へ一旦でなければならなくなった。はぁ〜。
家での生活は、もちろん土足(笑)ただ、外履きと上履きをみんな分けている様だ。その方が楽だもんね。と言うことで、靴屋へ安い靴を買いに行った。ショーウィンドウには、様々な靴が、値段付きで飾ってある。一番安い999ペセタのに決めた。店員のおじさん、何番だと訊いてる。ああ、サイズね。「26」と答えるが、怪訝な顔。「26センチメートル」と単位まで付けても、やっぱり首をひねっている。おじさん、私の足を見て適当なものを持って来て「これが41で、こっちはもう少し小さい」えっ?センチじゃないの??おじさんの見立て通り、41がぴったりだった。「センチメートルは使わないのか?」と食い下がるが、最後までおじさん、怪訝な顔だった(爆)
当時はインターネットも無く、ほとんど何の情報も得ずに行ったものだから、ほとんど現地で問題が出て、それに対処するって方法。だから、無茶苦茶効率悪かった(笑)銀行や警察も、行っては、必要書類や説明を聞いて、次の日にまた行って、不備や問題があったら、その次の日に再びという感じだった。説明訊いてもすぐにはわからないので、何度も訊いたり、書いてもらったり。30分も歩けば町の外に出てしまうような小さな町だったので、全て歩いて用事を済ませてた(笑)
今更ながら、写真を複数載せる方法がわかった!
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