久々の東京、久々の顔2010年10月27日

10月13日、14日と、約半年振りに東京へ出張した。以前は年に10回ほど行ってたが、今年はまだ3回目だ。出張の目的は、仕入れもあるが営業もある。経費を使うからには、それ以上稼いでこなければならない。しかし、見込みありそうな商品が無く、自然と足が遠のいていた。だからと言って行かないわけにはいかないので、ようやく季節が秋を感じるようになった今月行くことにした。ちょうど14日から幕張メッセで「日本ホビーショー」が開催されるということもあった。5月の静岡ホビーショーは、出張のアポイントの関係で見逃しているので、今回はちょっと見ておきたい。また、前の週に友人から、貴金属のネックレスを頼みたいという相談があった。ちょうどいろいろな用事が重なってくれ、ついに行くことに決めた。

出張にはだいたい、ホテル付きのパックツアーを使う。横浜の親戚の顔を見るために、年に一二度泊めてもらうが、新幹線の安売りチケットを買うより、ホテル付きパックの方が安かったりする。しかし、そのパックツアーも、しばらく利用していない間に変わってしまった。以前はひかり指定のみだったが、のぞみも指定できるようになった。そのかわり、上りは午前11時前だと1800円も追加料金をとられる。下りは午後8時以前だと2800円追加だ。これでは全く格安感が無くなってしまったと思ったのだが、私の場合、子供を保育園に預けてから出発なので、10時30分頃のひかりを利用していた。今回のぞみは11時2分発。ただ、のぞみはひかりより30分ほど早く東京へ着くので、私にとってはほとんど変わりなかった。

13日、京都は朝から気温20度を超えている。最高気温は27度にもなるらしい。久々のスーツで、駅まで歩くと汗だくになった。東京は23度ほどで、やや快適といったところか。それでも、慣れない長袖に上着では、結構汗をかいた。今回は、返却用の石でかなりの重さになったカバンのせいもあるだろうか。10キロを超えるであろうカバンを持ち歩くのは、いくらキャスターが付いているからと言え、階段の多い東京の電車ではかなり疲れる。取引先で荷物の半分を空にし、ほっこりと座った総武線の車窓から見えたのは、ああ、あれがスカイツリーか。その大きさは、遠くからでもはっきりわかる。ビルの林の中に立つ東京タワーと比べると、草原にそびえ立つ様なスカイツリーは、ジャックが登る豆の木のようだ。そのうち、あの周りも林になるんだろうか。

御徒町の取引先を出ようとした時、突然バラバラと雨が降ってきた。空の具合からして夕立だろう。1時間もしないうちに止むだろうが、友人の参考になるような、K18のネックレスを探すため、傘を借りて御徒町をうろうろする。しかし、なかなか思うようなものは見つからない。そうこうしているうちに出発時間が迫ってきた。横浜で久しぶりにMFCオーナーと会う約束をしていたので、傘を返し電車に乗って横浜へ向かった。

久しぶりに会うMFCオーナーに、どんな顔しようかな、などといつもと違うことを考えながら、居酒屋へ向かう。それは、今回彼の奥さんとなったchi〜さんも来ているという緊張からだ。chi〜さんとは、8月のフォリナー・セッションに来ていただいたが、私は司会進行で忙しかったため、途中ほんのご挨拶程度しか出来てない。今回が初めて会うと言っていい場で、少しはまともなことしゃべらないとあかんかな?などと考えると、つい緊張してしまった。しかし、そんな心配も、明るいchi〜さんのおかげで、すぐに無くなった。そして終電間近、ワインのボトルを3本空けてまだ足りないという盛り上がりの中、MFCオーナー夫妻と別れホテルへ戻った。

明けて14日。ちょっと飲み過ぎたようだが、私はワインはそれほど残らない。午前中は、幕張メッセへ「全日本ホビーショー」を見に行く。ガンダムや宇宙戦艦ヤマトなど、それなりに新製品は出ているが、やはり昔の焼き直し感は拭えない。昔のスーパーカーやF1などを、新たに金型を起こして発表しているものも少なくなく、その辺りに、今の模型業界のターゲットが見えてくる。今や、時間を使ってひとつのものを作ると言うことは時代に合わないのか。わからないことも、ネットで一瞬のうちに知ることが出来る。時間や効率に追われ、情報に埋もれ結果ばかりを気にするあまり、そこへたどり着く過程という大切なことが失われていくように感じる。会場に「タミヤ人形改造コンテスト」などで有名な山田卓司さんがいた。静岡でも初日に行くといつも来ている。彼のような作品、あるいは鉄道模型のジオラマなんかを作ってみたいと思いながら、やはり私も時に流され、果たせぬままでいる。

昼からネックレスの参考資料を探しに再び御徒町へ。昔の同僚のサトウさんが、御徒町の貴金属の問屋に勤めていたことを思い出したからだ。同僚と言っても一回り上である。しかし、二十年前に私が新卒として入った会社へ、彼が転職してきたのはその二ヶ月前だった。渋谷の円山町で生まれ育った江戸っ子。お父さんが、確か寿司屋から中華料理屋になったと言う、ちょっと変わり種。営業畑を歩いてきたサトウさんは非常におしゃれで、オーダーのワイシャツにカフス。髪はリーゼントとまでは行かないが、いつもアップに固めていた。体型はスリムで浅黒く、仕事中はいつも眉間にしわが寄っていた。そこへ、バリバリの東京弁なので、入社してしばらくは、怒っているんじゃないか?と、あまり近寄らなかった。ところが、彼から見ると、私の関西弁こそ、怒っているんじゃないかと聞こえていたそうで、しばらくしてお互いその事実を知り、笑いあったものだった。

サトウさんからは、社会人とは、営業とはなど、色んなことを教わった。仕事中は厳しい顔をしているが、定時の6時を過ぎると「ああ、今日も一日終わったな〜」とにっこり、机の引き出しを明け「これが無くちゃ、残業なんてやってられるかよ」とウィスキーをちびちびやるのであった。ある時は、営業の帰りに買ったいいちこの一升瓶を開け「さあ、6時過ぎたよ。ほらほら、コップに注いであげて」と、回したりしていた。そして、ほぼ毎日へべれけ状態で、会社の愚痴などをみんなで言い合あった。そんな愚痴の中でも、サトウさんは必ず「でもね、○○さんにはいつもきっちり仕事してくれて、感謝しているんだよ」などと、ろれつの回らない口で、他の人の仕事に対するお礼を欠かさない人だった。

サトウさんは、非常に細やかで、気の利く人だった。いや、人より気を利かせることが彼の美徳であり優しさであった。だから、社内はもちろん取引先から飲み屋に至るまで信頼と人気は絶大なものだった。会社の近所の宿泊施設の食堂は、夜は飲み屋になる。青山では貴重な気安い場所だ。そこでは、仲良くなった店員さんが、おつまみだけ注文してくれたらいいよと、宴会で余ったボトルをサトウさんのキープに回してくれた。「若い奴らを飲みに連れて行ってやるほどもらってないけど、ここならいくらでも飲んでいいからね」そこはカッコ付けの彼が、限られた人だけを誘う憩いの場所でもあった。

サトウさんとは部署が違ったので、一緒に仕事をする機会は少なかったし、プライベートでの付き合いも無かったが、なぜかかわいがってもらった。大体においてだらしが無い私であるが、ある時「俺はね、君がご飯を一粒も残さずにちゃんと食べるのを知ってるんだよ」と妙なところで誉められたのを憶えている。そんなサトウさんも、バブル崩壊による会社の業績不振のため、転職を決意することとなった。責任感の強かった彼には、苦渋の決断だったようで「ほんと悔しいけどよ、俺もガキやババア食わせなきゃなんないんだよ」と、営業不振がまるで自分の責任のように思っていた。その後、サトウさんは取引先の、小さいが老舗の貴金属の問屋へ転職した。私が東京にいた時は、たまに飲みに行ったりしたが、京都へ帰ってからは、会うこともほとんど無くなった。

何年振りかな。御徒町はいつも行くが、あえて避けて通っていた店の前に立った。会いたくなかったわけではなく、昔と変わらない、成長していない自分を見られるのが恥ずかしかったからだろうか。ガラス扉の向こうのショーケースの前に、サトウさんはいた。外からじっと見ている私に気づいたが、私だとわかるまで、ちょっとインターバルがあった。「なんだよ〜、なんか似てる奴がいるな〜ッて思ったら、やっぱり君かよ。びっくりしちゃったよ」と、以前と変わらない口調で出迎えてくれた。サトウさんは、相変わらずスリムだが、以前は無かった白髪が交じって、痩せたみのもんたか井川比佐志を連想させた。とは言え、私の方が白髪も増え髪も薄くなっているのだが、そんなことは気にせず、一気に二十年前に戻ったような気になった。

K18のネックレス情報の他、思い出話も交え、最近の業界の動向や他の同僚たちの近況などを話し店を後にした。その後横浜で仕事を片付け、8時過ぎののぞみで帰った。午後11時過ぎ。出張は一日中で歩くので、さすがに疲れる。どっかり腰を下ろした、京都駅から奈良線に乗っている途中、携帯が震えた。マナーモードの留守電に録音されていたのは、サトウさんだった。「もしもし、お疲れさまでした。今日は会えると思ってなかったけど、元気そうで良かった良かった。それじゃあまた、おやすみなさい」と、ちょっとろれつが怪しい、あの懐かしい声が録音されていた。