ゴールデンは終わらない ― 2012年05月09日
4月19日のことになるが、久々に東京出張へ行った。夜行バス利用の日帰りで、帰りは新横浜から新幹線。仕事終わったらすぐに帰らなければならないので、誰にも連絡せず行った。ところが、前々日に横浜の取引先から、身内に不幸があったので、キャンセルになった。チケットは取ってあるし、キャンセル料払うなら、東京だけでも行くしかないな〜。そんなおり、バルセロナ在住の焦げ茶色の犬さんが一時帰国していることを知った。
焦げ茶色の犬さん、略して焦げ犬さんは、私のブログのスペイン音楽記事に唯一食いついて来た奇特な人だ(笑)なぜか、勝手に九州の人だと思い込んでいたが、実は関東圏だと言うことがわかり、キャンセルで空いた時間に会ってもらうことにした。
前日までの雨が嘘のような、雲ひとつない晴天。朝から順番に取引先を回って、三時前に予定終了。そろそろ新宿へ向かう旨のメールを出そうと、携帯を手にしたとたんメール着信が。焦げさんかなと思ったら、MFCオーナーからだった!祇園で暴走車が歩行者を多数巻き添えにした様だが、大丈夫かと心配する内容。しかし京都どころか、私は現在御茶の水(笑)今回時間が無かったので、オーナーには連絡せずに行ったが、まさにこのタイミングでメールをくれるとは、情報筒抜けFacebook?(爆)
オーナーに返信後、ちょっと大久保に寄ってから新宿へ。いよいよ焦げ犬さんと初対面。初めて会っても、共通の話題はわかっているので、いきなりディープなお話で、2時間ちょっと楽しく過ごせた。EUDLFの話題はもとより、マドリードで会った日本人画家の話も通じるとは!その後、彼女はゴールデン街に新規出店!した友だちの店へ。一緒に行けなかったのが、ほんと残念。無くなる、無くなると言われながら、今でも新規出店してるんだな。そう言えば、ゴールデン街に、フラメンコの店があったけど、まだやってるのかな?一度入ろうとして、満員の外人さんたちににらまれて、止めた思い出がある(爆)
ゴールデン街と言えば、東京で勤めていた時代、社長や知り合いのボトルを飲んだり、学生運動世代の人によく呑みに連れて行ってもらった。自分で払った事無いので、高いのか安いのかわからないが、これからも昭和の色を残す一角として続いて行くんだろう。
小さな恋のメロディ ― 2011年10月25日
先日、テレビで映画「小さな恋のメロディ」を見た。最後に見たのは、20年以上前かな。それでも、3〜4回見てると思う。この映画を初めて見たのが、小学6年生くらい。もちろんテレビで。話が、ちょうど同年代であり、恋に対する憧れや、そのワクワク感でいっぺんに好きになった。翌日、クラスでもかなり話題になったことを憶えている。あのトロッコは、どこまで行ったんだろう。二人は捕まっちゃったのかな〜なんて。
音楽は、ほとんどがビージーズだが、それを知ったのは後からだった。当時は、まだビージーズを知らなくて、バックに流れる歌も、それほど注意して聴いていなかった。今見ると、映像と音楽がぴったりだと思ったら、曲が先で、映画はそれに合わせて作られたらしい。以前カラオケで、MFCオーナーと「メロディ・フェア」を歌い、私がハモリを入れたら、あまりのへたさに酔いが冷めた思い出もあるな〜(爆)
当時は、メロディ役のトレイシー・ハイドがかわいいな〜、ちょい悪のトムもかっこいいな〜って見てたけど、今見るとマーク・レスターかわいい!歳とともに、嗜好も変わったのか?(爆)久しぶりに見て、まだまだ子供で、将来のことなんか考えもしなかったくせに、もう一人前のように思って過ごしていた、そんな甘くて淡い頃を思い出した。
楽しかった日々 ― 2009年07月08日
考えてみると、BBAはいい加減だった。だが、そのゆるさが我々にとって良い加減だった。なんにも知らない私のような素人が、いい加減なことをやっても、許してくれるおおらかさがあった。そして、誰でもできるんだ。できることをすればいいんだと言う自信を与えてくれた。
ゆるキャラと言える笑顔のマスター。本当にいつも笑顔で我々を迎えてくれた。そして我々を見守っていてくれた。このマスターがいたからこそ、BBAにこれだけの人が集まり、楽しめたのだと、今更ながらその人柄に感謝する反面、都合のいい時だけ甘えて、存続の力になれなかったことが悔しくてならない。
BBAは遠かった。京都に住む私でさえ、大阪に出るのと変わらない位時間がかかった。駅から遠すぎとぶつぶつ言いながら、それでも通った。だって、BBAがそこにあるから。BBAは暖かかった。北山と言う寒冷地にありながら、どんなに凍てつく日でも、扉の向こうには暖かい笑顔、熱い演奏があった。夏の暑い日でも、BBAのステージでかく汗は心地よかった。
BBAと言えば、プロデューサー・ナイトだった。普段はできないような曲をやる楽しさ、ぐちゃぐちゃでも楽しかったし、思いもよらずきっちりできたものもあった。プロデューサー・ナイトが始まった頃、立て続けに子供が生まれたこともあり、ほとんど手伝えなかった。参加できても後半だけと言うことが多かったが、子供たちも少し成長し、そろそろプロデューサーできそうかなと思っていたのに、それも叶わぬ夢となってしまった。
音楽に関しては無知だったので、かなりの有名曲でも知らないのがほとんど。それでも演奏しないことには仲間に入れないので、セッションでは、余りそうな曲にエントリーして、必死でコピーした。慣れてくると、結構手抜きや一夜漬けも憶えたりして(笑)それなりに鍛えられた。その経験は、かけがえの無いものとなった。
多くの知り合いもここから生まれた。信頼し、尊敬できる人たちとも出会えたし、傷つけられたりもした。それは、音楽のおかげでとか、音楽があったからとは思わない。だが、BBAのおかげであるのは間違いない。我々の聖地、原点、ホーム。いつもそこにあると思っていた、あって当たり前と思っていたBBAが無くなってしまう。無くなって、初めてその存在の大きさを実感する皮肉さ。心に開いた穴は、しばらくは埋まりそうに無い。
今月末で、営業を終えるBBA。11日のセッションに顔を出すが、次の週も2日間、お別れイベントが組まれている。20日には顔を出せるだろう。そして、心に刻んでおこう。ありがとう、BBA。何よりも、マスター始め、そのご家族に感謝しきれない。ありがとうございました。いつかまた、みんなで集い楽しめる時が来ることを祈りたい。
はんぶりおつきさま ― 2008年09月16日
かけっこもとくいですけど、ほいくえんのかえりはいつも
「おとうちゃん、だっこ」
おとうさんにだっこしてもらうと、おそらがちかくなります。
いぬもくるまもこわくありません。
かどのざくろのみにてがとどきそうです。
「あっ、ひこうきぐも」
どこにいくのかな。たかいたかいそらをとぶひこうき。
「あっ、ゆうやけ」
あかねぞらがきょうのおわりをかざります。
「あっ、おつきさま」
やまからまんまるおつきさま。
「おつきさま、はんぶりになるの」
「はんぶり?」
「うん。ちーちゃんがまんまるおつきさまをパクパクってたべたらはんぶりおつきさまになるの」
「おつきさま、ぜんぶたべたらなくなっちゃうね」
「だいじょうぶ。またふとるから」
そういって、だいすきなめだまやきみたいなおつきさまをたべました。
「駅」その残骸 ― 2007年02月04日
グアディクスの古い駅に放置してあった機関車。青く明るい空のもと、朽ち果てた姿が何とも寂しい。この後十数匹の野良犬に追いかけられ、必死で逃げた。もし咬まれていたら、狂犬病なんてことにもなっていたかも・・・。
しりとりバトン「駅」 ― 2007年02月03日
ちゃーめさんから回ってきた「しりとりバトン」、お題は「え」。最初は「エレキ・ギター」にしようかと思ったが、この言い方が何とも古くさい。加山雄三かベンチャーズって感じだ。だからやめ。で、フと思いついた「駅」にしよう。
私は鉄道オタクではないが、列車の旅は案外好きだ。もちろん家から目的地まで移動できる車の旅の快適性は、パワーが減りつつある年齢になると、かなり捨てがたいものがある。しかし、他人と一定時間同じ空間で過ごさなければならない列車、特に長距離列車には特別な雰囲気があり、それがまた旅の演出にはもってこいなのだ。
とは言え、私が列車を利用して旅したのは、ほとんどがヨーロッパでのことだ。あちらの長距離列車は、8人もしくは6人が一部屋のコンパートメントだ。最初は無口だった客達も、時間が経つとお互い話が弾み、食べ物や飲み物が配られ、各々の下車駅で手を振って別れる。列車の旅には、そんな楽しい思い出がある。もちろん、油断して寝ていたら荷物を盗まれたなんて嫌な思い出もあるけど。
向こうの駅と言えば、想像するのが巨大アーチのターミナル駅。大都市では、あまり街中に列車を敷かないので、自然とターミナル駅が増える。日本ではほとんど見かけないが、京都駅山陰線のターミナルホームを見てのむりんが狂喜したらしい。たしかに雰囲気はあるな。叡山電鉄出町柳駅や今は無くなった、京津線三条駅なども、プチ雰囲気あるな。
駅ではバーやカフェで列車を待っている人、迎えにくる人、旅立つ人、改札が無いので、駅の施設だけを利用する人など混沌としている。巨大なアーチ、それはそこに暮らす人々の人生の玄関でもあるようだ。向こうの列車は、必ずしも時刻表通り動いてくれないので、2時間待ちとか、夜遅くに着いた時は、一晩明かすとか、結構駅を利用させてもらった。
日本の列車の旅での憧れは、やはり駅弁だろうか。今では数も減ってしまったようだが、目的地に着くまでに、途中の名物を味わえるなんて、なんて幸せなんだろう。ところが鉄道旅行が盛んなヨーロッパに、駅弁が無いのは、不思議だ。まあ、だいたい旅行と言うと、パンにハムやソーセージ、チーズなど持ってきているから、必要ないのかもしれない。
写真は、グラナダ市郊外にあるGuadix(グアディクス)。洞窟住居で有名な村だ。田舎なので、駅員もいなかった、ホームだけの駅。うちの近所のJR駅も、いまだにこれに近いものがあるけど・・・。機関車はもちろん飾りです。
というわけで、しりとりバトン、二人の人に回すと言うことですが、あんまりバトンやってる印象がないみょうがさんとまんきちさんに振ってみよっと。駅の「き」です。
冬の訪問者 ― 2007年01月16日
ああ、まだ気分が優れない。肩と頭と目の周りが痛い。
さて、旧成人の日の思い出だが・・・あれは大学時代のことだった・・・。うちの学校は大阪北部、住宅地の高台のてっぺんにあり、冬はかなり冷える。私は夜学に通っていたので、冬、日が落ちると、その温度差は市内と比べると3度はあっただろうか。バスはチェーン常備。一限目の授業中に雪が降ってきたら、皆帰れないので二限目は休講と言うこともたまにあった。
そんな陸の孤島に通う足は、バスの他は大体がバイクだった。当時は原チャは少なく、バイク通学のほとんどの生徒が中型二輪に乗っていた。大型二輪は、まだ限定解除と言われ、合格率は司法試験以下だった時代。数少ないNinjaや刀は憧れの的だった。原チャも多かったのかもしれないが、駐輪場になる生協前には、単車たちが我が物顔で停まっていた。そんな奴らを見て、私もバイクの免許を取ったのがこの頃だ。
1月14日、授業が終わって帰ろうとすると、雪は降っていなかったが、路面が街灯に照らされて光っている。授業中に降ったのか?これでは学校入り口の下り坂カーブで転けるのは目に見えている。次の日が休みと言うこともあり、構内の寮に住んでいたvoltyのところに泊めてもらうことにした。
部屋で話をしていると、上階の先輩が、一人の男を連れてきた。北大生と名乗るその男はvoltyと同郷らしいので連れてきたのだ。彼は帰省後、札幌に戻る途中でふらりとうちの学校に寄ったらしい。早速どの辺出身かとvoltyが訊くと、かなり近所らしく、あの角の店がどうとか、結構盛り上がって話していた。卒業後は省庁を目指しているというその男、外交官志望の生徒などがアドバイスを求めにくると「○○さんの本読んだ?あれは読んどく方がいいよ」などと答え、さすが北大!と寮内も沸いたものだった。
そのうち、麻雀やろうと言うことになり、その男を囲んで半雀を数回、結局徹マンになった。結果は、その男がトップ、私の一人負けだった。清算段階になり、その男が「負け分は、みんなの朝飯代と言うことでいいじゃない」と言ってくれた。朝食は学生生協だから、もちろん格安。ああ、よかった。また寄ってくださいねとその男に言い、何となくすっきりした気分で家に帰ったのだった。
次に学校に行ったのが、休みを挟んで19日だったか。いつものように生協の食堂に並んでいると前の方にvoltyがいた。この前はありがとうと礼を言うと、浮かない顔で「あのな〜、あいつ泥棒やってん」とつぶやいた。「へっ???あいつって、あの北大生???」「そうや」。なんと、徹マンを打っていた相手は泥棒で、北大生というのも真っ赤な嘘。親しげに近寄り、寮内のいろいろな部屋に出入りしては、現金を盗んでいたというものだった。「ええ〜!!」voltyも数万円盗られ、他にも盗られた人が数人いたらしい。それにしても、思いっきり顔見られてるし、何とも大胆やな〜と、驚きを通り越して感心してしまった。
その泥棒、一年後くらいに山形で結婚詐欺で捕まったそうだ。もちろん盗られたお金は返ってこないが、悔しかったのか、voltyはわざわざそいつの裁判まで見に行ったそうだ。人は簡単には信用できないな〜。
そう言えば、去年の泥棒も捕まったそうだ。
病院通い ― 2006年12月02日
だいぶましにはなったが、まだ声がまともに出ない。咳も出るので、医者に行った。いつもすいているのに、シーズンだからか結構人がいた。それでも10分ほどで診察してもらう。治りかけではあるが、薬をもらう。あまり無理に声を出すと、ポリープができるので、あまり声は出さないようにと言われた。しかし、そうも言ってられない。朝はギャギャーいいながら子供を保育園に連れて行かなくてはいけないし。おまけに今日は、保育園に送って行く途中で、タクシーの運ちゃんと言い合いになるし。電話で話すと、聞こえにくいと大きい声になるしで、なかなか声を休める機会が無い。以前風邪でのどをやられた時は、4〜5年ほど高い声が出なかった。今回もそんな風にならなければいいけど。
そんな訳で、病院に行く機会が増えているのだが、若い頃はほとんど行ったことがなかった。もちろん入院などしたことが無い。高校生の時、自転車に乗っていて、車に7m跳ねとばされた時も、その日に退院し、二日後の修学旅行にも行ったくらいだ。でも、結構重症になった時が一度ある。スペインで交通事故にあった時だ。
1987年12月2日、午前3時半頃だから、正確には3日か。私は10月に、サラマンカからグラナダへ引っ越していた。サラマンカではホーム・ステイだったが、グラナダでは学生同士でアパートをシェアしていた。その日は友達のルーム・メイトの誕生日だったので、そこの家にお祝いに行き、車で送ってもらった。私は助手席に乗っていた。スペイン人って、石畳の細い道でもスピードを出す。そして大通りへ出て、交差点を左折(日本での右折)の為に一旦停止。対向車線からヘッド・ライトが近づいてくるな〜と思ったら、スルスルと車が交差点に入って行った。あっ!と思うと、みるみるライトが大きくなり、私の方へ向かってくる。そして次の瞬間、ものすごい衝撃とともに、車の中を体が跳ね回った。
しばらく呆然とシートに座っていた。車は180度向きを変え、中央分離帯近くまで飛ばされていた。乗っていた3人も無事のようで、もう外に出ている。パトカーも来ているようだ。右耳の上の辺りが熱いので触ってみると、血が出ていた。どうやら頭でドアのガラスを割ったようだ。足が痛いが歩ける。とりあえず、パトカーで病院へ連れて行ってもらった。頭の傷は、縫うほどでもなかった。各部レントゲンを撮って、写真を見ながら診察。何か注射をしているかと訊いている。何だ?辞書で調べると「破傷風」だった。そんなの、もう日本に無いぞと言うと、今日一回、三ヶ月後にまた一回、それから5年ごとに打てという紙をもらった。そしてレントゲンの結果は、左膝の皿が欠けていた。写真で見ても、丸い皿の下の方が割れている。入院だなと思ったら、今日は帰れという。そして、足を動かさないで、一週間後に来なさいと言われた。松葉杖は?と思ったが、スペインでは貸してくれないのか、朝の5時頃そのまま帰された。
初バンド、練習〜ステージ ― 2006年11月06日
みんなの個人練習もできた頃を見計らって、合わせてみることにした。場所は私の部屋。初夏の窓を閉め切った部屋に男5人も入ると、5分もしないうちに汗が噴き出す。だが、暑いとか言ってられない。さあ、みんなの練習の成果を見せてくれ!「Don't Stop Believin'」のピアノのイントロが流れる。そして、ドラムとベースが入ってきた。ドラムはタッタッタン、タッタッタン。うん、なかなか練習の後が見られる。。ベースはドッドッドッドッ。音も間違っていない。・・・ただ・・ただ・・・それぞれ自分のテンポで弾いているから、ピアノのテンポと合ってない・・・。ピアノ無視でドラムもベースもそれぞれマイ・テンポ。しかも、バラバラなのに気づかず、各自勝手に進めて行く。ピアノ、ベース、ドラムの見事なまでのアン・アンサンブル・・・めまいがした。後でピアノの奴が「あの時、泣きそうな顔してたで」と教えてくれた。いや、実際泣きそうだった。あわてて中断。ちゃんとお互いの音を聞くようにと注意し、何度も練習し、ようやく通してできるようになった。しかし、せっかく完成した記念の曲だが、誰も歌えないと言うことでボツになってしまった。最初から気づけよ・・・。
再度選曲。ビリー・ジョエルを中心に、フォリナー、そしてもう一人のギター&リード・タンバリンが、すごいグループがデビューしたから是非やりたいと提案してきたのがエイジアの「Heat Of The Moment」。そいつの音楽の嗅覚は、かなり優れており、みんなが知らないようなアーティストを聴いたり買ったりしていた。だから、間違いなかろうとそれに決定。持ち時間はセッティング込み1時間なので、10曲選んだ。夏休みは、みんなクラブなどで忙しいけど、暇を見て練習に励んだ。とは言え、今のようにリハーサル・スタジオに行く訳ではなく、うちの家やドラマーの家で練習した。今考えたら、家族にとっては迷惑な話だ。
バンド名は「THE ZENZA」に決定。そして文化祭当日を迎え、我々の出番になって目を疑った。会場の音楽室に入りきらない人、人、人。100人は来ていただろうか・・・それは言い過ぎか。とにかく、満員御礼だった。情報誌に「Billy Joelやります」と書いたのが効いたのだろうか。彼の人気を改めて感じた。セッティングはギターをアンプにつなぐだけ。照明も何も無い殺風景なステージだけど、我々にとっては大舞台。練習はした。3ヶ月前のバラバラだったあの時から比べると、まとまってはいる。後は本番だけだ。仕込んだ開演のベルの後、ガラスの割れるSE。さあショーの始まりだ。
(セットリスト)
ガラスのニューヨーク Movin' Out Long, Long Way From Home 冷たいお前 レイナ ストレンジャー Heat Of The Moment 衝撃のファースト・タイム My Life さよならハリウッド (1982年9月 於学校の音楽室)
初バンド、結成まで ― 2006年10月31日
Happy Helloween!で、明日からいよいよ11月。今年も早かった。今日は仕事で神戸へ。絶好のドライブ日和だが、慎重に走行。仕事は一時間ほどで済んだが、行き帰りで一日つぶれる。まあ、気持ちのいい天気だからいいか。でも、車って、雨でも移動中は濡れないから、それはそれで好きなんだけど。
さて、初バンドはベース、それも横浜銀蝿と言うことになるのだろうか。二年生になり、自分の好きな曲でバンドをやりたいと思うようになった。しかし、ギタリストとしては奥手だったので、楽器やっている奴らは、既にバンドを組んで活動していた。そんな時、仲の良かった友達がギターを買ったと言う。また、小学校からの仲良しが、ポータサウンドを買ったと言う。うん、仲良しでバンド組めるかも。別の仲良しに「お前ベースやれ」と言い、四人でバンドを組むことにした。ただし、私以外は楽器初心者ばかり。それでも、来る文化祭に出演しようと言うことで、選曲が始まった。
いろいろ悩んだあげく、自分たちのキャラを生かして、コミック・バンドにしようと決める。もちろん、コミック・バンドが技量的に優れてないとできないなど知る由もなかった。「ウルトラセブン」「ウルトラマン」「ゲゲゲの鬼太郎」「妖怪人間ベム」など候補が挙がる。譜面も音源も無いけど、何とかなるだろう・・・って言うノリだった。そんなある日、別のクラスに、ピアノをやっていて、まだどこのバンドにも入っていない奴がいるとの噂を聞き、早速みんなでスカウトに行った。彼はおしゃれで、学生服の胸ポケットからジバンシーのハンカチを覗かせたり、王将はヌルヌルしているからイヤ!って言う奴だった。
果たして彼は加入してくれるのか。「バンド組んで文化祭出るんやけど、キーボードで入ってくれへん」「ええけど何やるの?」「ウルトラマンとかゲゲゲの鬼太郎とか・・・」「そんなんイヤやわ」。あっさり断られた。そりゃそうだ。オシャレな人は鬼太郎なんかやらない。ウルトラマンは振り付きで考えていたくらいだから絶対無理。「ほな、何やったらええの?」「ビリー・ジョエルやるんやったら入ってもええで」「よし、ビリー・ジョエルしよ」善は急げ?即決だった。
ところが問題が一つ、キーボードが二人になった。一人はポータサウンド買ったばかりの初心者。もう一人は子供の頃からピアノを習っている奴。苦渋の決断を迫られたが、キーボード初心者には諦めてもらうしかない。私はその場で彼に告げた「お前剣道部やからドラムやれよ」。彼はかなわないと知り、素直に応じてくれた。そいつは今でも、自衛隊のサークルでドラムを叩いている。
その頃私の家にはドラムセットがあった。銀蝿の発表の後、一緒にやったギターの奴から電話があった。うちの近所の先輩が、そいつにドラムをあげるから取りに来いと言われたけど、その日は夕方だったから、同じ町内のうちに置かせてくれないかと言うことだった。いいよ、と気軽に応じて、取りに行って驚いた。タムは3つあるけど、全部同じ大きさ。シンバルも3枚あったけど、スタンドは2本。スネアも2つあった。見た目もかなりボロボロだった。そしてそいつが、そのドラムセットを取りにくることは無かった。
もういらないと言うので、ヘッドの上からタオルを張り、シンバルやハイハットにもタオルのカバーをつけて、バスドラは邪魔なので、二つあるスネアの一つにペダルを付けて、ドラムの練習台を作った。結構いい感じで、2〜3ヶ月遊んだ。この前のドラムデビューは、この時の練習が役に立ったかな。しかし、ドラマーが決まったので、その練習台をそいつの家に運び込み、練習をさせた。そして、雑誌にスコアが載っていたジャーニーの「Don't Stop Believin'」を最初の課題曲として、各自個人練習に励んだ。
つづく
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