オスカル2006年10月06日

プール通いでよく焼けている

7月に上げようと思っていて、すっかり忘れていた。スペインでのホーム・ステイ先の息子オスカルの13歳の誕生日の一コマ。

写真は右から、お母さんのドミ、娘のクリスティーナ、息子のオスカル、遊びにきていたドミの姪のマリ・フロール、おばあさんのロサ、ホーム・ステイ中のハワイ出身モアナ、そして私。写真を撮ったのは、ホーム・ステイ中のドイツ人マンフレッドだ。スペインでの写真は1500枚くらいあるが、ほとんどが風景や他人を撮った物で、自分が写っているのは少ない。ロックTeeの写真も、結構貴重?な物だ。

この家族、お父さんはいない。なぜいないのかは、最後まで聞くことができなかった。スペインで離婚ができるようになったのは1981年からなので、離婚したとは考えにくい。だとすれば、亡くなったんだろうか。でも、それらしき写真も無かったし・・・。4年前に行った時は会えなかったので、次ぎに行ったときには聞いてみよう。

お父さんがいないので、一家を支えるのはお母さん。留学生のホスト・ファミリーとして生計を立てている。一緒に暮らしているのは子供2人とおばあさんの計4人、そして留学生達。だいたい2〜3人の学生達がいた。だからこの家には、いつも6〜7人が暮らしていたことになる。スペインの住宅事情は、町中はほとんどがマンションだ。この家もマンションの5階。そんなに多くの学生を受け入れているのだが、3LD+Kと、部屋数がある訳ではない。私が最初に到着した時は、学校から連絡が行ってなかったようで、お前の部屋は無いと言われた。学校からの書類を見せると、確かにうちの家だと、オスカルの部屋をさっさと片付け提供してくれた。慣れた物だ。いくらホーム・ステイとは言え、よその家の中をあれこれ見て回るのもいやだったので、私はほとんど自室とリビング、たまにキッチンに行くくらいだった。

最初は、家族がどこで寝ているのか謎だった。だって、一部屋は私専用、もう一部屋は他の留学生が使っている。もう一部屋は、ちらっと見たことがあるが、六畳くらいにベッドが一つあるだけで、そこにはおばあさんとクリスティーナの寝室のようだった。だいぶ後で気がついたが、キッチンから続くベランダにベッド用のマットがあった。そう、ドミとオスカルはキッチンで寝ていたのだ。それに気づいた時、とてもショックだった。日本では自分の部屋もあり、暖かい布団もある生活が当たり前だった。でもここでは、生活するために家族は一つのベッドを分け合い、どこから来たのかもわからない外国人にいきなり部屋を与えてくれる。もちろん学生は学校からの紹介だし、それが仕事なのだが、そんなことを思うと、とても複雑な気持ちになった。

その家には6月から9月まで4ヶ月いた。家族はみんな明るい、と言うか、いつも怒鳴り合ってた。仲が悪い訳ではなく、何かにつけてでかい声になる。私は彼らのしゃべっていることは全くわからず、おまけに学校の予習と宿題で、結構部屋に閉じこもることが多かった。そんな私を見かねてドミは「外へ行って、女の子でも引っ掛けてこい!」なんて言ったりしてた。実際ヨーロッパの他の国の留学生は、バカンスのついでに来ていることもあり、みんな良く遊びに出ていた。私も週末にディスコに行くこともあったが、彼らのように毎日とはいかなかった。今考えると、もったいない話だ。

ホーム・ステイは当たり外れがあり、何度かホスト・ファミリーを変えたという人も少なくない。それを思うと、私はとてもすばらしい家族に巡り会えたようだ。10月からサラマンカを離れ、グラナダに住むことに決めていたが、出発の一週間くらい前から「何でアンダルシアに行くの、ずっとこの家にいればいいじゃない」と再三言ってくれた。

4年前に訪ねた時は、その家には誰もいなかった。学生の世話は別の人に任せているようで、ドミとおばあさんは、サラマンカ郊外の町にいた、クリスティーナは他の町に嫁ぎ、オスカルも他の町で暮らしていると言う。町並みは当時と変わっていなかったが、そこには当時の暮らしが無いことに時の流れを感じ、自分の帰る場所も無くなったようで寂しくなった。でも、それぞれが幸せに暮らしていることを考えると、嬉しくもあった。次に会えるのはいつになるかな。