山海塾「金柑少年」レポ2006年04月11日

ソロ三様。(c)山海塾
 3月31日に、東京出張を絡めて山海塾の「金柑少年」を観に行った。この金柑少年は、初演が1978年。通常の山海塾の舞台は、主宰・天児牛大(あまがつうしお)氏がソロをとり、他の踊り手は群舞だが、今回、自身は演出に徹し、若手舞踏家(彼より)にそれぞれのソロを託した、ある種山海塾の未来形を見る作品となった。

 日本で生まれた舞踏は、スキンヘッドに白塗りでクネクネ踊るという、その見た目の異様さからかなり際物扱いされており、むしろ海外での評価が圧倒的に高い。それは舞踏の草分け的存在の、麿赤兒氏率いる大駱駝艦は現在でも活動しているが、そこから派生した京都の白虎社、小樽に拠点を置いていた北方舞踏派などが散会していく中、パリに拠点を置いて活動をしている山海塾だけが現在まで活動を続けていることからもわかる。近年、山海塾は日本ではびわ湖ホールと共同プロデュースをしており、新作の日本初演はびわ湖ホールで発表していた。びわ湖ホールができる前も草津で上演したりと、何かと滋賀県と縁が深いようだ。

 今回この作品を観に行った理由には、なんと言っても弟弟子の市原昭仁(イチ、でもここではイッチー)君が、初めて山海塾でソロをとるので、その勇士を観に行ったのだった。弟弟子とえらそうに言っているが、別に私は山海塾にいたわけではない。昔、大駱駝艦から派生した、海田勝氏(現在、どんぐり山の会と言う登山クラブ代表)主宰の族長の足袋と言う舞踏団に縁あって所属していたときに、彼が入ってきた。私は趣味程度にやっていたのだが、彼は当時、日芸の演劇学科演技コースで舞台の勉強をしていた本格派。そんな彼の兄弟子というのもおこがましいが、しゃれの意味も込めて兄弟子を名乗らせてもらっている。

 さて、金柑少年だが、舞台には一面に巨大な戸板がたてられており、そこには無数のマグロの尾が渦巻くように打ち付けてある。普段は砂や水などきれいで抽象的なイメージの物を使うことが多いが、最初の軍服(だと思う)やイッチーが踊った「豆太郎」の場面のどてらなど、駱駝の影響が見られるのが興味深い。しかしイッチー、いつ見ても鍛えた身体してるな〜。その身体をどてらの中に小さく縮めて、しゃがんだまま舞台を歩き回る。ああ、昔あの体勢でグルグル回ったな〜、きついな〜と思い出す。だが顔はアハアハ笑っている。イッチーお得意の何とも無邪気な顔だ。ソロの大半を身体を縮めなければならないと言う制約の中での表現はひとつの見せ場だったと思う。

 他に観客の目を引いた場面は、生きた孔雀を抱えて踊る場面だった。クビを掴まれ身動きできない孔雀の長い尾を上手く使っていた。後半、小道具であった孔雀は放たれ、別個の生物へと変化する。予想できない孔雀の動きは、意外性を持ちおもしろい効果もあるが、観客の目がどうしても踊り手より孔雀の方へ向かいがちになる。これで羽根でも広げれば完全に孔雀の勝ちだ。去年のイッチーのソロ公演でも小鳥を使っていたが、鳥が客席を歩いて、せっかくの緊張感が途切れてしまった。孔雀の場面はイッチーではなかったが、動物に対抗するのはかなりしんどかったであろう。

 舞踏のレポは、抽象的なだけに何とも難しい。もちろん作者の意図はあるが、基本的には観る人が勝手に考えて思ってくださいってスタンスだからだ。以前舞台を観てくれた人が「途中で気持ちよくなって寝てしまいました。」と言ったら、海田さんは「別にそれでも良いんだ。」と答えていた。実は私は、美しさの山海塾より、舞台を観ながら「わはは」と声を出して笑える大駱駝艦の方が、どちらかというと好きだった。今回は現在の洗練された美を強調した山海塾の舞台と違い、大駱駝艦の泥臭さの影響が見える舞台、いや、泥臭さから抜け出し洗練されていく過渡期の作品として、楽しくそして興味深く観ることができた。