初バンド、その前2006年10月30日

昨日、初めてのギターのことを書いたので、ついでに初めてのバンドについて書こう。

フォーク・ギターでチューリップや河島英五を練習し、なんとか曲も弾けるようになるまで半年ほどかかった。一緒にギターを買いに行った友達は、別の高校に進学したが、大半の友達は同じ高校に進学した。高校生ともなると、聞くのはほとんどロックになっていて、やっぱりエレキが欲しくなってきた。その頃愛読していたギター・ブック(やっぱりアコギ系)の新製品情報に、35000円のギターが紹介してあった。おお!私の知っている中で、最安値だ。早速楽器屋に走った。だが、色が赤と青しか無かった。今の私なら、迷わず赤を買うが、シャイな高校生は「赤か青か〜、派手だな〜」」。そう言うと店員さんは、来週これの上級機種で茶色も出るよと教えてくれた。値段も40000円の2割引。そして、一週間後そのギターを手に入れた。人に貸して、ボロボロになったけど、今でもたまに使ってる。(でも、今は甥っ子に貸し出し中)

その頃は、バンド活動などせず、一人でジャカジャカ、いやアンプ通してないのでシャカシャカ弾いていた。一年生の終わり、最後の道徳の時間に好きなことをやらせてもらえたので、ギターのうまい奴がバンド演奏をやりたいといい、それが採用になった。彼は中学生の頃から、上手いと評判で、バンド活動もしていた。しかし、同じクラスにはメンバーがいなかったので、私にベースをやらないかと誘いがかかった。題目は「横浜銀蝿」・・・バンドでやってみたかった私に、選択の余地はなかった。元々三本の指に入るベーシストを目指していた私は、すぐにOK。ドラムは全くの初心者を抜擢。そいつの友達の美人ベーシストに(他校だったのがもったいない)ベースとアンプを借りて、その日から特訓が始まった。ギターの奴が、メジャーのパターンはこう、マイナーのパターンはこうと、結構理論的に教えてくれたのは驚きだった。やっぱり彼は上手いのだ。練習帰り、夜の無人駅で楽器出して練習したりと、ほのぼのした時代だった。

そして迎えた道徳の時間。無事演奏は終わった。緊張したかも憶えてないな。一応アンコールが来たので、上手くいったんだろう。そう言えば、その時のアンコールのジョニーBグッド、ドラムが叩けないと言ったので、代わりに叩いたのが、ソフト・ボールであった奴だった!一度共演してたんだ。

長くなったので、自身のバンドは明日。

ソフト・ボールと懐かしい顔2006年10月29日

今日は町内のソフト・ボール大会に出た。運動会ではかなりの盛り上がりを見せたこの町内だが、ソフト・ボール大会は、動員にかなり苦労している様子だった。まあ、どこの町内もそれは一緒で、運動会では30町内くらいあったのが、今日の出場は8チーム。うちも女性を一人入れての参戦だった。

野球は小学生の頃毎日のようにやっていたが、それ以来ほとんどやっていない。一昨年、前の町内で参加した時は、結構いい当たりもしたのだが、ボールを投げる方が、もう上手く行かない。それ以前にグローブが無い。今回も、その辺を考慮したか、体格からか、初めてキャッチャーをやった。結果は、負け。やっぱり日頃からやってないと、ボールポロポロ落としたりと、守備が追っ付かない。私は、後逸だけはするまいとがんばった。おかげで楽させてもらったけど。外野なんかは大変だ。飛んできたボール追っかけて、とても5回持たないだろう。打撃は3打数1ヒット2エラーと、出塁率では10割だ。高々1試合だが、結構疲れた。でも、スポーツの疲れは気持ちいい。やっぱり運動しないといけないな〜。

その日の朝、学校の前で小・中・高と一緒だった同級生に、20年ちょいぶりに会った。彼は小学校の時からキッスやビートルズ、BCRを聴き、フォーク・ギターで、アリスなどを弾いていた。でも、二枚目ではなく、三枚目で、いつもみんなを笑わせるクラス一の人気者だった。小学校卒業の時のお楽しみ会では、彼ともう一人の友達と私の三人でギターの弾き語りをした。彼ともう一人の友達は、ギターを持っていて、上手に弾けたのだが、私は当時ギターを持っていなかった。と言うか、あんまり興味なかった。でも、彼らと一緒に何かやりたかったので、一週間で弾ける曲を教えてもらった。それは、弦一本で弾く「禁じられた遊び」。要するに、アルペジオを省略して、メロディだけ鳴らすという物。彼らがやったのは、確か「酒と泪と男と女」と「今はもう誰も」だったと思う。緊張するからと、私が最後に弾いたので、その技量の落差にみんな驚いたことだろう。思えば、これが私が最初に人前でギターを弾いた瞬間だった。次に人前で弾くのは、それから5年半後のことになる。

中学一年の時も、彼と同じクラスだった。初めてのコンサート、河島英五を観に行ったのも彼と一緒だった。でも、中学生になってからは、彼はバンドでドラムを叩いたりして、交友関係も変わってしまった。私がギター欲しいな〜と思うようになったのは、中学三年生になってからだった。小学校で一緒にやったもう一人の友達は、既にグレコのレス・ポールを持って、キッスやCharを練習したりしていた。そいつに、ギター買おうかなって思ってると相談すると、「ギターは辞めとけ。あいつやろ、あいつやろ・・・今からやっても追いつかへんで。今からやるならベースにしろ。ベースやったら、あいつとあいつしかいいひんから、三本の指に入るで」と、ありがたいアドバイスをくれた。「せやな〜」と、始める前から既に三本の指に入った気になった私は、その日から当時ヘビロテだったアルバム「Head Games」のベースラインを追うようになった。

だが、中学生に当時のベースは高すぎた。唯一の収入源がお年玉だったその頃、ベースなんてとても買えない。するとその友達は「ベースはギターの3〜6弦と同じ押さえ方やから、安いフォーク・ギターで練習したらええやん」と、近くの楽器屋についてきてもらい、ヤマハのギターを買った。そして弾き語りの本を買ってきて練習したのはチューリップだった。

話が飛んでしまったが、今日会った友達は、学生以来、仕事に追われてドラムもやっていないと言う。BBAでのセッションの話をすると「キッスか〜、懐かし〜な〜」と目を細めた。私も学生以来ほとんど活動せず、再開したのがつい4年ほど前。「一緒やで、またやろうや〜」と連絡先を聞いて別れた。彼とは楽器を始めた時期がズレていたので、バンドはおろか一緒に演奏したことも無いが、引っ張り出して、近いうちに共演できたらいいな。

「青春=金がない」のはもう古い2006年10月20日

18日(水)、東京へ出張してきた。今回も日帰り予定だ。以前は、東京の友達と会うために、二三泊していたが、子供に手がかかるようになり、行く回数も日にちも減ってきた。そして、前回と今回は日帰りだ。特に展示会でもない限り、キツいけど一日で回れるスケジュールでもあった。今回も誰にも会わずに帰ろうと思っていたが、前日、夜行バスで帰ることをふと思いついた。

以前はかなり利用していた夜行バス。値段が安いということもあるが、それよりも、私は夜行バスの旅が好きだった。それは、スペインを旅行した時の移動が、ほとんどバスだったからだ。スペインは、今でもそうだが、鉄道網があまり発達していない。中心にある、首都マドリードから放射状に延びているだけである。だから、バスしか乗ったことが無いと言う人も多い。私は旅行のとき、特に宿代を浮かせるために、夜行バスをよく使った。バスでは2〜3時間に一度、10分程度のトイレ休憩がある。たいていが小さな村のバルやカフェテリアで、カフェ・コン・レチェやジュースなどを飲み、村の雰囲気を味わう。夜なら外で満天の星を眺めるなど、ちょっとしたことだがリフレッシュすることができる。日本のバスでも、旅していた頃の雰囲気を少しでも思い出し、楽しめるので、結構バスを使っていた。

しかし、年とともにバスの移動もキツくなってきた。夜行バスはゆっくり寝ることができないので、到着したら結構疲れる。それに昔は、朝6時頃に到着しても、店も何も開いてない。途方に暮れるだけだ。そして、疲れた体で仕事となるとつらい。最近は、出張プランというツアーもあり、往復の新幹線代でホテル付きというのも珍しくない。だから、いつの間にか新幹線で出張するようになった。ところが、このところ夜行バスの運賃がかなり下がって来た。4〜5千円だと言うので、久しぶりにバスにしてみようかな、それにバスだと、出発時間が遅いので、友達と一杯飲める。

そうして、21時50分発の「青春ドリーム号」片道5000円のチケットを買い、久々にvoltyと呑んだ。結局1時間ほどしか時間がなく、次回はもっとゆっくりしようと別れた。そして乗り込んだ「青春ドリーム号」、やっぱり寝られなかった。昼間のバスは寝られるのに、なぜ夜行バスでは寝付けないのか?不思議だ。東京の帰りに、静岡によっていた頃も、必ずバスを使っていた。朝出るバスは4時間ほどで静岡駅に着く。その時はよく寝られたのに。それに、どうもお尻が痛い。ウトウトしても、お尻が痛いので目が覚める。乗って2時間ほどは、やっぱりもう乗りたくないと思った。

結局2〜3時間ほど寝られただろうか。朝6時前に京都駅に到着。バスから降りた人たちは、夜が明けたばかりの人通りの無い街に散らばって行く。その時、新幹線では味わえない「着いた」と言う気分、そして思い出される旅の記憶。また乗ってもいいかな、って気分になっていた。

しかし、「青春ドリーム号」って名前、何とかならないもんだろうか。

リサイクル2006年10月11日

木造じゃこうは行かない

ヨーロッパの建物は、大体が石造りだ。巨大な大聖堂や宮殿、堅牢な城を見ると、とにかく圧倒されてしまう。日本にも立派な城や塔があるが、層で作られたそれとは違い、中身もがらんどうで「箱」って言う感じだ。南ヨーロッパ以外は地震の心配が無いので、構造上建物内部の空間が広くとれるのだろう、とにかく大きい印象がある。そして町に建つ家々もまた、古い物が多い。

私がいた、スペイン・サラマンカはこじんまりとした町で、特にマジョール広場を中心とした旧市街の美しさはすばらしく、世界遺産に登録されている。私のいた翌年、1988年に登録されたところを見ると、選考にかなりの影響を与えたのではないかと、自らの功績にちょっと満足したりしている??

そんな古い町並みを保存するのは、かなり大変だろうと思われる。実際、マジョール広場の建物にあるペンションなどは、結構ひどいところも多い。そんな中、学校のすぐ近くの家を解体していた。外壁には、一つ一つに石に番号がふってあり、その向こうは、既に取り壊されている。新たに建てるときに、パズルのように番号順に組み立てて行くんだろう。そうすれば、中身は新しいけど、町並みは保存できる。こういう時、石の建物って便利だ。なるほど、こう言う手もあるんだな。中身まで保存の必要がない建物は、こうして景観を保っているようである。

京都でも町家を再生し、残そうという動きもあるが、財政的、そして素材が木という耐久的な問題、また、同じ物を建て直そうにも、建ぺい率や容積率といった法的な問題などで、なかなか難しいようだ。だからでこぼこと、新旧入り乱れた家が建ち並ぶ。寺や神社のように何百年も経っている物もあるが、それは定期的に補強、修理などのメンテナンスを施してあるからで、一般家庭では難しい物がある。町家は住んでみたいけど、それらのことを考えると、とても手が出ない。他人事だから、次々壊すな!って言いたいけど、仕方ない事情もあるから、あまり勝手なこと言うのはやめよう。まあ、観光都市なら、最悪倉敷のような場所を作ることくらい、京都市は考えた方がいいかもしれない。

ヘレスの天使達2006年10月09日

ポーズつけたりして、かわいい

スペイン・グランプリ予選の土曜日、バスがなかなか来ないので、サーキットからヘレスの町まで10kmを歩いて帰った。途中ヒッチハイクを試みるが、誰も停まってくれず。ドイツなどでは、ヒッチハイクは盛んらしいが、スペインではあまりやる人もいない。だからなかなか停まってくれない。制限速度100km/hの一般道をのんびり歩く。町まで何にも無い、荒涼とした道を2時間ほど歩いて、やっと町外れの団地までたどり着いた。

スペインの町は、歴史的な建物がある旧市街はそのままにして、郊外に新しいマンションが造られる。そこも、いわば新興住宅街。サーキットでも結構歩いた上、10kmの道のりを歩いてきただけに、さすがに疲れた。原っぱで休んでいると、子供達が物珍しそうに寄ってきた。最初は3人くらいだったが、友達を呼んできて、あっという間に6〜7人になった。名前は?とか、どこから来たとかいろいろ質問攻めにあい、最後には石をつかんで「これは日本語でなんて言うの?」と聞いてきた。教えてやると、じゃあこれは?それは?あれは?と見えるものの名前を手当り次第に聞いてくる。次々答えるけど、大変だ。

30分ほど遊んだだろうか。「じゃあ行くね」と言うと、落ちていたガラスを拾って「これを僕たちの思い出にもって帰って」と差し出した。すると他の子達も石ころなんかを拾ってもってくる。さすがにそんなのいらないので「それより、君たちの写真を撮って、思い出にするよ」と記念写真を撮ることにした。一枚撮ると「あっ、あの子写ってなかった」とまた友達を呼んできて撮影。長く手を振って別れた。

子供達にとっては、聞いたことも無い国から来た外人と話したと、一週間くらいは話題にしてくれたかな。

F1観戦2006年10月08日

日本人ドライバーと言えば、やっぱりこの人

今日、鈴鹿でのF1開催がひとまず終わった。来年からは富士になるそうだが、コースが昔と同じなら、マシンとタイヤの性能差で勝敗が決まりそうで、つまらないな。その鈴鹿で初めてF1が開催された年に、スペイン・グランプリを観ることができた。

開催地はJerez De La Frontera(へレス)。ここはシェリー酒の産地として、世界的に有名だ。サラマンカからバスで6時間かけてSevilla(セビージャ)に行き、そこからバスを乗り換えて1時間ほどでその小さな田舎町に着いた。スペインでもかなり南にあるヘレスは、9月も終わりというのにかなり暑い。サーキットは町から10kmほど郊外にある。交通手段はバスかタクシーだが、F1開催だというのに、臨時バスも無い。町が盛り上がっている訳でもない。そう、観客が少ないのだ。スペインはオートバイのレースは小排気量において、アンヘル・ニエトだとかホルヘ・マルチネス・アスパルだとかのスター選手が多く、DerbiやJJコバスなどのメーカーも活躍しており、絶大な人気を誇っていたのだが、ことF1に関しては、いつもドベが定番のアドリアン・カンポスしかいなかった。それに入場料もバイクの約2千円に対し、F1が約1万円と高価だったこともあるかもしれない。

土曜日の予選と日曜日の決勝を観た。予選では帰りのバスがなかなか来ないので、10kmの道のりを歩いて帰った。途中ヒッチハイクを試みるが、誰も停まってくれなかった。翌日の決勝、疲れが出たのか寝過ごしてしまった。あわててバス停に行くが、何か様子が違う。予定のバスに余裕で乗れた。実は前の日でサマータイムが終わったので、一時間遅くなっていたのだ。間先場所は、2〜3コーナーと4コーナーが見渡せるところ。金網も低く結構近くで観ることができた。応援するのは、やはりこの年からF1に参戦した、日本人初のF1ドライバー中嶋悟である。

誰が優勝だったか、中嶋がどうなったかも憶えてないけど、バイクに続き(これはまた後日)F1も観戦できた喜びに、旅の疲れも吹っ飛ぶのであった。

今調べたら、優勝はマンセル、中嶋は9位完走だった。

オスカル2006年10月06日

プール通いでよく焼けている

7月に上げようと思っていて、すっかり忘れていた。スペインでのホーム・ステイ先の息子オスカルの13歳の誕生日の一コマ。

写真は右から、お母さんのドミ、娘のクリスティーナ、息子のオスカル、遊びにきていたドミの姪のマリ・フロール、おばあさんのロサ、ホーム・ステイ中のハワイ出身モアナ、そして私。写真を撮ったのは、ホーム・ステイ中のドイツ人マンフレッドだ。スペインでの写真は1500枚くらいあるが、ほとんどが風景や他人を撮った物で、自分が写っているのは少ない。ロックTeeの写真も、結構貴重?な物だ。

この家族、お父さんはいない。なぜいないのかは、最後まで聞くことができなかった。スペインで離婚ができるようになったのは1981年からなので、離婚したとは考えにくい。だとすれば、亡くなったんだろうか。でも、それらしき写真も無かったし・・・。4年前に行った時は会えなかったので、次ぎに行ったときには聞いてみよう。

お父さんがいないので、一家を支えるのはお母さん。留学生のホスト・ファミリーとして生計を立てている。一緒に暮らしているのは子供2人とおばあさんの計4人、そして留学生達。だいたい2〜3人の学生達がいた。だからこの家には、いつも6〜7人が暮らしていたことになる。スペインの住宅事情は、町中はほとんどがマンションだ。この家もマンションの5階。そんなに多くの学生を受け入れているのだが、3LD+Kと、部屋数がある訳ではない。私が最初に到着した時は、学校から連絡が行ってなかったようで、お前の部屋は無いと言われた。学校からの書類を見せると、確かにうちの家だと、オスカルの部屋をさっさと片付け提供してくれた。慣れた物だ。いくらホーム・ステイとは言え、よその家の中をあれこれ見て回るのもいやだったので、私はほとんど自室とリビング、たまにキッチンに行くくらいだった。

最初は、家族がどこで寝ているのか謎だった。だって、一部屋は私専用、もう一部屋は他の留学生が使っている。もう一部屋は、ちらっと見たことがあるが、六畳くらいにベッドが一つあるだけで、そこにはおばあさんとクリスティーナの寝室のようだった。だいぶ後で気がついたが、キッチンから続くベランダにベッド用のマットがあった。そう、ドミとオスカルはキッチンで寝ていたのだ。それに気づいた時、とてもショックだった。日本では自分の部屋もあり、暖かい布団もある生活が当たり前だった。でもここでは、生活するために家族は一つのベッドを分け合い、どこから来たのかもわからない外国人にいきなり部屋を与えてくれる。もちろん学生は学校からの紹介だし、それが仕事なのだが、そんなことを思うと、とても複雑な気持ちになった。

その家には6月から9月まで4ヶ月いた。家族はみんな明るい、と言うか、いつも怒鳴り合ってた。仲が悪い訳ではなく、何かにつけてでかい声になる。私は彼らのしゃべっていることは全くわからず、おまけに学校の予習と宿題で、結構部屋に閉じこもることが多かった。そんな私を見かねてドミは「外へ行って、女の子でも引っ掛けてこい!」なんて言ったりしてた。実際ヨーロッパの他の国の留学生は、バカンスのついでに来ていることもあり、みんな良く遊びに出ていた。私も週末にディスコに行くこともあったが、彼らのように毎日とはいかなかった。今考えると、もったいない話だ。

ホーム・ステイは当たり外れがあり、何度かホスト・ファミリーを変えたという人も少なくない。それを思うと、私はとてもすばらしい家族に巡り会えたようだ。10月からサラマンカを離れ、グラナダに住むことに決めていたが、出発の一週間くらい前から「何でアンダルシアに行くの、ずっとこの家にいればいいじゃない」と再三言ってくれた。

4年前に訪ねた時は、その家には誰もいなかった。学生の世話は別の人に任せているようで、ドミとおばあさんは、サラマンカ郊外の町にいた、クリスティーナは他の町に嫁ぎ、オスカルも他の町で暮らしていると言う。町並みは当時と変わっていなかったが、そこには当時の暮らしが無いことに時の流れを感じ、自分の帰る場所も無くなったようで寂しくなった。でも、それぞれが幸せに暮らしていることを考えると、嬉しくもあった。次に会えるのはいつになるかな。

ロックTeeバトン2006年10月04日

この頃から、1年に1kg弱肥えた計算になる・・・

 今年の5月にドロたんからもらったこのバトン。実はロックTee(注)は1枚しか持っていない。ジャーニーのエスケイプのジャケットの七分袖の奴だ。後は妻が持っているYesのTee。キャミソールもあるが、私が着るわけにはいかない。という訳で、今回公開するのは、昔持っていたフォリナーのプロヴォカトゥールのTee。では!

1.貴方の一番お気にのロックTを画像入りで紹介願いたい。
 お気に入りだったので、かなり着たおして、黒も白っぽくなり、いつの間にか捨てられていた。

2.その愛すべきロックTとは何処で出会いましたか?
 スーパー・ロック'85の会場で。確か2500円だった。背中には、出演者が書いてあったと思う。多分、初めて買ったロックTeeだ。次が3年前に買ったジャーニーの。

3.そのロックTを着ていて一番思い出に残ってる事
 写真はスペインにいた時の物。22歳の時だが、説明しないと、わからないかもしれない。左隣にいるのは、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのヴォーカルに似た、イタリア人のお友達。右隣は、たまたまそこにいたスペイン人。夜の河原へ遊びに行った時の写真だと思う。

4.こんなロックTが欲すぅぅいいいーーーっ!
 このTeeは、また欲しいな。フォリナーのオフィシャル・サイトで販売しているので、買うかもしれないな。「4」のTeeもあったら欲しい。オフィシャル・サイトにもあるが、品質が悪そうなのでダメ。SabinaのTeeもあれば買うぞ。昔から、あんまり欲しいと思わないのだ、ロックTee。でも、お手軽なステージ衣装として、最近はちょっと欲しくなっているかな。来日のときに買おうかな。

5.このバトンを絶対受け取って貰いたい人
 う〜ん、賞味期限が切れているので、これで終わり。あっ、結構Teeやオサレに詳しいろくまん、やってみるか?それから、この前新品のTeeやらジャージやら着ていた陰陽師やっさんも。がんばってくれ。

(注)Tee、Tシャツのこと。フォリナーのオフィシャル・サイトで、こういう書き方をしていた。

夏はプール2006年08月11日

今でも渡れるかな〜

スペインの夏は暑い。サラマンカでも40度、マドリードやセビージャでは45度位まで平気に上がる。私がいた87年はヨーロッパでは記録的な猛暑で、ギリシャでは58度で死者も出たくらいだった。

そんなある日、街はずれにプールがあることを教えてもらい、行ってみることにした。家から歩いて、鉄道の鉄橋を渡って30分。列車は一日に数回しか通らないので、町の人も良く渡っている。ほんとに街の外、周りになんにもないところにぽつりとプールがあった。でも、中は結構きれいだ。料金も200円くらい。学校では回数券も売っている。

荒涼とした荒れ地に、青々と水をたたえたプールがあった。ひょうたんをデフォルメした形のプールはまさにオアシス。ああ、炎天下に30分も歩いてホッカホッカの身体、早く飛び込みたい!だが、プールの中には誰もいなかった。プールサイドには木が植えてあり、みんな木陰で本を読んだり昼寝をしたり。一人で泳ぐプールはとても贅沢。そして、私はほとんど毎日プールに通うことになった。気持ちいいというのもあったが、本当の理由は、プールサイドで日光浴しているおねーちゃんが、ほとんどトップレス(・)(・)だったからだ。ビバ、プール。

このトップレスのおねーちゃんたち、スペイン人はまずいない。ほとんどが北欧などの外国人。日射しの少ない国の人たちは、夏休みに観光&勉強を兼ね、スペインへ来る人が多い。そんな人たちは、日光を浴びることも目的のひとつなのだ。そんな人たちの目的と、私の目的が見事に一致した楽園、それがプールだったのだ。だが、トップレスはスペインでも社会問題になっていたようで、テレビでアンケート結果など報告していた。それによると、6〜7割のスペイン人が、トップレスを不快に思っているようだ。私は、不快に思うはずもなく、プールサイドで身体が火照れば水に浸かり、また上がって火照るを繰り返す毎日なのだった。

Ciudad Rodrigo2006年06月24日

初めて見た地平線

 La Albercaからペニャ・デ・フランシアを抜け更に西へ。サラマンカから87キロ西にあるCiudad Rodrigo(シウダド・ロドリゴ)へついた。ここまで来ると、もうポルトガルとの国境まで27キロ。昔は城だった建物が、ホテルとして使われている。これはParador(パラドール)と言い、各地の城や史跡をホテルとして再利用している。国が経営しており、ランクも高い。グラナダなど人気パラドールは、半年から一年待ちもざららしい。

 そのパラドールを見学することができた。見学と言っても、屋上に上っただけだったけど。だが、そこからは、地平線まで続く荒れた大地を見ることができた。ほんと、木もない。ちょうどポピーが一面に咲いていた。夜になると星がきれいだろうな。