アイ・ワナ・ノウ...42010年07月20日

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今回は、フォリナーの要であるミック・ジョーンズについて見てみましょう。フォリナーでデビューする前にも充分な経歴があり、そこへ行き着くまでは長い道のりがあったようです。

ミック・ジョーンズは1944年英国出身。レス・ポールに憧れ、10代にはバンド活動をしていました。やがてバンドは、フランスへ渡り活動を続けます。その後シルヴィ・バルタンのバンドに参加。初めての大舞台は、1964年のビートルズのフランス公演の前座でした。その公演で、彼のギターのストラップが切れ、ギターを落としてしまい、思わず英語で「#%$&*!」と叫んでしまいました。すると、その場にいたジョン・レノンが「お前イギリス人かいな!」と声をかけ、ビートルズが滞在した2週間あまり、同じホテルを手配してくれ、部屋でジャムったり、オフも行動を共にしたそうです。

その後ミックは、シルヴィ・バルタンの夫、ジョニー・アリディのバンドへ移りました。曲作りも精力的に行い、アリディのフランスNo.1シングルのうち3曲は彼のペンによるものでした。アリディは、自身の音楽性を高めるべく、ミックにアメリカでオーティス・レディングのバンドと作業させたり、イギリスで、まだセッション・ミュージシャンだったジミー・ペイジとジョン・ポール・ジョーンズと一緒にバンドを組ませてレコーディングをしたりしました。

フランスでポルシェを乗り回し、ゴルフ・コースがある郊外に家を持つほどに成功を収めたミック・ジョーンズは、ある日ゴルフをしながらふと考えました。「俺の人生これでええのか?24歳やのに、もう隠居生活やんか!」(私ならそれでいいと思いますが)そう思ったミックは、さっさとフランスに見切りを着け、イギリスへ戻ったのでした。

イギリスに戻ったミックは、スプーキー・トゥースの復活の手助けをする事になります。そして、スプーキー・トゥースでアルバムを3枚出しアメリカへ進出しますが、その後バンドは解散。その間にピーター・フランプトンの「ウィンド・オブ・チェンジ」やジョージ・ハリスンの「ダーク・ホース」のレコーディングに参加したりもしました。一時演奏活動を離れた後、レスリー・ウェストのバンドでギターを弾いたりもしましたが、そのバンドも長続きしませんでした。

仕事を失ったミックは、次にどうするか考えました。とりあえず曲を書き貯め、そろそろ自分のバンドを持ってみようかとメンバーを募りました。それが後にフォリナーとなります。デモ・テープを作り、レコード会社へ売り込みましたが、ことごとく断られたそうです。デビューする事になったアトランティック・レコードにも、一度断られています。ところが、たまたま彼らのテープを聴いたアトランティックの重役が、「このカセットにはNo.1ソングが入ってるよ!」と、一転契約、デビューとなりました。

その後の活躍は、フォリナーのアルバムで紹介している通り。ミックはバンド以外でも、ヴァン・ヘイレンの「5150」、ビリー・ジョエルの「ストーム・フロント」などプロデューサーとしても手腕を発揮。フォリナー休止中は、エリック・クラプトンの「バッド・ラヴ」を共作したり、ビル・ワイマンズ・リズム・キングスでプレイしたりしていました。そして2005年にジェイソン・ボーナム、ケリー・ハンセンらを迎えフォリナーを本格的に復活させ、2007年には来日公演。2009年には、14年振りの新譜を出し、今も精力的に活動を続けています。